tonchiroの日記

話題性とは関係なく、自分の興味だけで紹介していきます。本とか映画とか音楽とか。

【今日の夕飯】コーンポタージュ

近所のプールで泳いだ帰り、行きつけのスーパーへ向かう途中に、新しい八百屋を見つけました。長細くて狭い敷地に野菜が並んでいますが、これが安い。行きつけのスーパーの6割くらいの値段か。見たところ、小ぶりではあるけれど、新鮮でよさそうです。トウモロコシと豆苗とブドウを買いました。

あとは魚かな。行きつけのスーパーで開いたイワシが半額になっていたので、これにします。そのほかいくつか。

トウモロコシはコーンスープにします。玉ねぎをバターでいためて、その上に包丁で削り取ったトウモロコシの粒と芯を入れ、鍋にふたをしてしばらく置きます。しんなりしてきたら水を入れ、さらにしばらく待ちます。適当なところで火を止めて、粗熱が取れたあたりで芯を取り出し、ハンディーミキサーにかけます。あとは牛乳を足して塩コショウで味付け。これだけのことですが、トウモロコシが甘い。コショウを強めに効かせて味を引き締めます。

イワシはかば焼きに。昨日の焼き肉が少し残っていたので、厚揚げと豆苗を炒めたところに足します。

コーンスープが残ってしまった。明日のパスタソースにしようかな。

【積読本読書日記】「性的人間」大江健三郎

かなり前から本棚にあった本です。内容は全く覚えておらず、新鮮に読むことができました。おそらく買ったのは中学生だったか。その年齢では、理解するのは無理だったかもしれません。

 

「性的人間」。1と2の2つの章に分かれています。1で主人公を含んだグループが、別荘に映画の撮影に向かいます。このグループ、めちゃくちゃな人たちです。酒ばっかり飲んでるし、全裸の若いジャズシンガーはいるし、乱交やら男色やら。芸術家っぽいことを言っているように見えますが、何だか考えていることは弱っちい気がしてしまいます。正直、小説がどこに向かっているのか全くわかりません。

でも、そこを何とか通り抜けて、2に入ると話は全く変わります。少し落ち着いて読めるような気もしますが、主人公には共感できません。痴漢だからです。ただ、趣味として痴漢をしているのではなく、主人公自身も、痴漢は犯罪であり一種の精神的な病と認識しているので、不愉快ながらも何とか読み進められます。2では、1の登場人物は背景とし登場するだけで、主人公以外の主要人物は新たに登場します。老人と若い詩人です。はじめは、主人公と老人が何をしようとしているのかわからないのですが、若い詩人と出会うことで明らかになります。少年も仲間に入り、三人での行動となりますが、少年はすぐに別行動を取ると宣言し、ショッキングな最期を遂げます。小説の中では、この少年が最も好意的に描かれているように思えます。行動には共感できませんが。一方、主人公のJは、ダメダメな終わり方をします。おそらく、人生を棒に振ってしまうのでしょう。暗い小説です。

 

「セヴンティーン」。内向的でひ弱な17歳の濃密な内部世界が、一人称で語られます。その少年も、ふとしたきっかけで右翼団体と出会い、急激に変身します。団体の制服を着れば無敵です。山口二矢がモデルとなっていますが、おそらく、大江健三郎とは思想的にはまったく相容れない少年の内面が、ここまで詳細に描けるものか。想像力に圧倒されます。そして、小説は、少年が忠とは私心を持たないことと悟って終わります。解説によると、話は「政治少年死す」につながるようです。ぜひ読みたい。現実世界での右翼の脅迫で出版されなかったようですが、アマゾンで調べると、今は「大江健三郎全小説」の第3巻に収録されています。しかし、税込み5,500円。収録されているのは、既読の小説も多く、なかなか簡単にはぽちっといけません。

 

「共同生活」。説明もなくいきなり猿が登場して、戸惑います。でも、そこは大江健三郎なので、不条理小説にはならず、恐迫強迫神経症による妄想と説明されるのですが。部屋に猿がいると思い込んでいる青年は、職場でも孤立した部署の中でさらに孤立していて、精神的に追い詰められていく過程が、読んでいる側もつらくさせます。最後は医者の診断を受け、恋人も部屋に現れるのですが、本人にとっては幸せな終わり方ではないような書かれ方です。解説によれば、小説の主題は、サルトルの思想にある実存の問題らしいのですが、サルトルを読んだことがないので、そこはわかりませんでした。

作詞は難しい

趣味でDTMをしています。

ギターとベースを弾いて、DAWでドラムをつければ、何となく曲として聞けるものができてしまいます。素晴らしい。昔、ギターを始めたばかりの頃にあこがれていた作詞作曲が、自宅のパソコンの前で完結してしまいます。

 

コード進行にはある程度パターンがあるので、ギターを弾いていると、へたくそなりに何となく曲になります。それを弾きながら何回か鼻歌で歌っていると、使えそうなメロディーもいくつか出てきます。できるだけ人の曲の真似になりすぎないように。ドラムは全くの素人なので、見よう見まねで聞いたことのあるようなパターンを入れます。ルートを中心にベースを入れれば、オケっぽく聞こえるから不思議です。

もちろん、聞き直してみると、素人っぽさにがっかりするのですが。実際素人だから仕方がない。

 

さて、これからが大変です。ここまで来たら、歌詞を入れたい。らららーとかふふふーんとかでは、やっぱり物足りない。

そこで、この曲が何の曲だったかを改めて考えます。何の曲だったんだっけ?無理やり情景を思い浮かべてみます。でもなんともつかみどころがない。仕方がないので、ひとまずテーマを決めて、思いつく言葉をノートに書きだします。いくつか書いてみたところで読み返してみます。これでいいのかな。しっくりこないので、ひとまず今日は終了。

また別の日に考えます。この前の情景を頭に思い浮かべます。何とかサビだけでも、メロディーに乗せられる言葉をひねり出します。

3日目あたりになると、はじめに書いていた言葉と方向性が違ってきています。でもいいか。これ以上長引かせても仕方がないから、何とかまとめよう。

 

そんな感じで5曲くらいできました。音楽教室の先生に聞いてもらったところ、歌詞の世界観が独特ですね、と言われました。誉め言葉と受け取って、ありがとうございます、と答えました。

映画「山女」を見てきました

福永壮志監督の映画「山女」を見てきました。なかなかいい映画でした。

遠野物語を題材にした、18世紀後半の東北地方の農村が舞台です。冷害で村は食糧難に苦しんでいます。生まれてくる子供を育てることができない。ショッキングな場面から映画は始まります。

主人公凛の家は、さらに困難な状況にあります。先祖の犯した罪で村に田んぼを取り上げられ、村の汚れ仕事を引き受けることで何とか食いつなぐしかありません。

凜は、ある事件をきっかけに家を出ます。超えてはいけないと言われている祠を超えて山に入っていきます。そこで山男と出会い、暮らすことになります。凜にとっては、ここで初めて人間らしい生活ができるようになったと感じることになります。

 

凜は、村の人たちからひどい扱いを受けても、心がねじれるわけではなく、健気に生きます。ちょっとできすぎなんじゃないかと思うくらいに。でも、そこは永瀬正敏が演じる父親が受け持ってくれます。父親は十分にひねくれています。少しばかりの米を盗んだ罪を娘に押し付け、田んぼが返ってくるとなれば、今度は娘を犠牲に差し出し、その娘には立派にお役目を果たして来いと言ってしまいます。でも、仕方がないことでしょう。自分のやったわけでもないのに先祖の盗みの罪で田畑は取り上げられ、収入を得る手段もないのに、二人の子供をここまで何とか育ててきた。母親は出てきませんが、おそらく下の息子が生まれてあまり時間がたたないうちに亡くなったのでしょう。つらい人生だったでしょう。さらに、ここから抜け出す手段もなければ、精神を病んで当たり前でしょう。

 

凜が神隠しを装って自ら山に入った時も、父親はそれと知りながら追うこともしません。そして、弟の庄吉が何とか村で生きていけるようにと考えます。18世紀の農村では、息子だけが大事にされるのも当然のことだったと思います。

 

一方の山男は、山の中である意味自由に生きています。ここで一人で生きることになったいきさつは、おそらくつらいことがあったのでしょうが、何とか山犬に食べられることもなく一人で生きていました。

 

東北の山村の映像はきれいです。チェロが深く響く音楽もとてもいい。

ちょっと気になっているのは、弟の庄吉のクレジットはなぜないのでしょう。ポスターや映画情報サイトにも出てきません。重要な役柄だと思うのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【積読処理日記】仏教入門 

本棚を整理していたら、きれいさから見ておそらく読んでいない本が出てきたので、読んでみました。

松尾剛次著「仏教入門」。岩波ジュニア新書の一冊です。

仏教の大まかな流れを復習するには適当な本です。

そもそも、そう思って買ったはずなのに、どうして読まなかったんだろう。

前半は仏教の概説。仏教というのは、仏陀の教えであるとともに仏陀になるための教えでもあります、から始まり、仏教の基本的な考え方、仏陀の生涯と仏教の伝播に進みます。

大乗仏教が発生し、チベット仏教、南伝、北伝と形を変えながら伝播していきます。

後半は、日本仏教について解説されますが、前半とは大きく趣が変わります。

中国を経て日本に伝わったということもあるのでしょうが、日本に入ってからの変化も大きい。日本の仏教というのは、やはり特殊なのか。

仏教伝来と聖徳太子の時代から始まり、奈良時代には国家から公認され、在来の神祇信仰とも集合していきます。平安時代以後は末法を迎え、鎌倉仏教の有名人がそれぞれ開設されます。この辺りまでは学校の教科書でもおなじみの内容です。

この本の特徴は、江戸時代以降の流れに一章を費やして、鎌倉新仏教が全国に展開していく時代と解説しているところです。決して、檀家制度にあぐらをかいて葬式仏教になり、研究に値しない対象になってしまったわけではないと。ここは興味深かったです。

その後、宮沢賢治から昭和の新宗教にまで進んでいきます。

私も、浄土真宗の住職の説教を聞く機会が年に一二度あるのですが、話し方もこなれていて、内容もなかなか興味深い。仏教に対する興味がまた湧いてきました。

もう少し専門的な本も読んでみようか。

養命酒が合わなかった話

養命酒はいいお酒です。悪く言うつもりはありません。

ただ、私には合わなかった。というより、今までの私のお酒の飲み方が悪かった。

 

前から興味はあったのです。養命酒。ただ、飲んでみようかなと人に話すと、なぜかいい顔をされないのでした。お年寄りの飲むものと思われていたのでしょうか。

でも、そんなこと気にすることもないかと飲み始めたのが半年ほど前です。

 

最初はよかったんです。甘いんだけど、スパイスが効いていてとてもおいしい。平日は家では酒を飲まないようにしていたのですが、それを特に我慢をする必要もなく、20mlの養命酒で十分満足していました。

気のせいかもしれませんが、体調もいい。それよりも、おいしいから飲んでました。朝食前と夕食前、それと就寝前。

 

でも、ある朝気が付きました。目が覚めた時に胃のあたりに不快感があります。はじめは気にも留めていなかったのですが、ふと思い出しました。そう言えば、これは以前経験したことにある感じだと。アルコールで胃腸が疲れているのか?

でも、このところ、酒は中断しています。平日だけの禁酒が、週末も出かける予定がなければ飲まずに過ごして、一か月を過ぎています。

まさか、20mlの養命酒で胃腸が疲れている?

でも、他に思い当たることもなく、ひとまず養命酒をやめてみました。すると、目覚めもすっきり。胃腸の不快感もなくなりました。

 

ここで、はじめに戻るのですが、養命酒は悪くありません。私のこれまでの酒の飲み方が悪いのです。

人が一生に飲めるアルコールの量は決まっているそうです。私の場合、30代で一生分の酒を飲み尽くしたのだと思います。あの頃はひどかった。週末のたびに飲みに出かけ、たいてい明け方まで飲んでいました。休日はほとんど使い物になりません。ずっと寝てました。それでも週が明けたら、仕事に後に夕食にはビールをつけて、週末にまた飲みに出かけていました。

もう十分飲んだので、これでいいのかもしれません。養命酒も週末に20mlずつ分けて飲めば付き合えそうです。とにかくおいしい。

繰り返しますが、養命酒はいいお酒です。満足しています。

PC机を変えました。

ブログを始めるにあたり、PCの使用環境を変えました。

今までは、家族が在宅勤務でディスプレイを使いたいというので、PCはテレビにつないで、キーボードはちゃぶ台に乗せていました。

そう。PCはデスクトップなんです。

今回、ブログを始めようと思ったタイミングが、コロナ明けと重なったので、使用頻度の低くなったディスプレイを移動してPC環境を整えました。

机は、無印良品のスチールユニット棚です。元々は衣類収納に使っていました。次男が中学生になる時に、半分物置になっていた部屋を勉強部屋にしたいというので、机を入れたところ、棚のスペースが足りなくなり、半分に切り離した部品が放置されたままになっていたのでした。

机っぽく組み立てて、PCを設置して使ってみると、なかなか快適です。今回、足りない部品を調達するのに、カタログを見ていたら「机にもなります」と紹介する写真が載っていたので、結構一般的みたいです。こりゃなかなかのアイデアだ、と思っていましたが、割と普通の発想でした。

これで、PCは使いやすくなり、ブログは続けられそうな気がしてきました。

趣味のDTMもはかどるかな。